きらきら星をさがして



 トイレから戻ると、いるはずの場所に息子の姿がなかった。


「ねぇパパ、奏は?」
 私のその言葉に、手元のスマートフォンから目を離した夫は一瞬何を言われたのかわからない表情を見せる。
「え、お前が見てたんじゃないのか?」
「何言ってるのよ。トイレに行ってくるから見ててって言ったじゃない」
「え? そんなこと言ってたっけ?」
 そう言いながら、ちらちらと手元に視線を動かす。
 夫の手の中にあるスマートフォンの表示は、今流行りの携帯アプリのゲームだ。


 場所は大型のショッピングモール。
 季節はすでに冬。両端にずらりと並ぶ店舗、そしてその間にある広々とした通路は目にも鮮やかな三色の色彩であふれている。
 通路の真ん中に設けられた広場には赤白の三角帽子をかぶった小太りな白人男性が微笑んでいて、その背後にはたくさんの飾りつけを施されてキラキラと輝く大きな木。
 その周りに置かれた雪だるまの首には赤いマフラーが巻き付けられ、たくさんのプレゼントボックスが転がっている。
 おそらく一年で最も多くの人々を魅了しているであろうイベントはもう目の前だ。
 そんなお祭り気分が蔓延している館内には、週末ということもあり多くの家族連れでにぎわっていた。


「言ったわよ! すぐ戻るからここで奏と一緒に待っていてって言ったじゃない。奏は?」
「あっちのキッズスペースにいるんじゃないのか? ほら、子供がいっぱいいるし」
 そう言いながらも、右手にあるスマートフォンの画面を閉じようとはしない。
 最近は休みのたびにこうして手の中の小さな機械と向き合っている夫にイライラしている私は、あえてそれを見ないように広場の奥にあるキッズスペースに足を進める。
 奏は私と夫との子供で、先月三歳になったばかりだ。
 人より少し遅れ気味だったおしゃべりが最近ようやく意思疎通ができるレベルにまで達しているが、まだ一人で何かをできるほどの成長は見られない。
 他の子たちと一緒に遊ぶということもまだまだ難しい年頃なので、キッズスペースなどの子供がたくさん集まる場所に連れていくときは親がきちんと目と光らせておかなければならないはずだ。
 それなのに。
「まったく、使えないんだから」
 夫に聞こえないように小さな声でそう呟いて、私はキッズスペースに目を向ける。
 そこには、おそらく小学生未満であろう子供たちが思い思いに狭い空間内を走り回っている。
 今日はたしか息子が今お気に入りのキャラクターが描かれたTシャツを着ていたはずだから、と記憶の中にある赤色のTシャツを目印にわが子を探すが、見当たらない。
「奏ー?」
 いつもここに来たら必ず遊ぶ室内用の滑り台や、夢中になってみている丸顔の主人公が活躍するアニメ映像が流れているテレビの前にも、私の息子の姿はない。
「かなでー!」
 少しずつ胸に迫りくる不安に押しつぶされまいと、私はひたすら息子の名を口にする。
 叫ぶほどの大声ではなく、でもいつもなら間違いなく息子に届くはずの声量で。
 今日は赤いTシャツにデニム生地のパンツを合わせていたはずだ。
 息子の服装を頭の中で再構築しながら、私はひたすら周囲に視線を巡らせる。
 心臓が、ドクドクと波打つ。
 毎日毎日、四六時中隣にいる息子の姿が見えないという状況に、気持がどんどん焦りだす。
 ふわふわの柔らかい髪の毛。すべすべで大福もちみたいな頬。
 いつも常にそばにいてそれが当然になっているはずなのに、その存在を感じられない。
 嫌な汗が胸元を伝う、その瞬間。
「奏、いた?」
 のんびりと歩いてきた夫が、私の様子に全く頓着せずに話しかけてくる。
「いない。いないよ。どうしよう」
 視線が定まらない。
 たくさんの子供を目で追いながら、その中にたった一人の大切な存在が見つからない恐怖に絶望感が募る。
 どうしよう。
 どうしようどうしようどうしよう。
 脳裏に浮かんだのは、今朝の息子。
 私の声に驚いて、真っ赤な目でこちらを見上げる表情。
 無意識にお腹に手を置く。
 ああ。もしかしたら。
 もしかしたら今朝のことが。
「マジか。それってちょっとヤバくね?」
 ようやくスマートフォンをポケットに仕舞った夫が、顔をしかめて私を見る。
 どうして? どうしてそんなに他人事なの?
 どうして私一人が悪いみたいな顔ができるの?
「とりあえず探してみるか」
 面倒くさそうにそう言いながら、あたりを見渡す。
 そんな夫の様子に、息が止まりそうになる。
 ああ。
 今すぐ息子を抱きしめたい。ふわふわの髪の毛に顔を埋めたい。
 どうしよう。
 もしも連れ去られていたら、もしも事故に巻き込まれていたら。
 指先が冷たくなる。
 冷や汗が、全身から噴き出してくる。
 胃の中のものがせりあがってくる感覚に、生唾を飲み込む。
 目の前が真っ白になる私の脳裏に、今朝の息子の顔が見える。
 ああ、あのときなぜあんな風にしか言えなかったんだろう。
 もっと、言葉があったはずなのに。
 きちんと伝えられたはずなのに。
「それとも誰かに聞いてみたほうがいいのか?」
 夫の声が遠くなる。
 どこか他人事な様子で私に責任を押し付けてくる夫の声に、意識を手放しかける。
 ダメ……! 倒れたらダメッ。
「お母さん? 大丈夫ですか?」
 その瞬間、私の耳に入ってきたのは柔らかい女性の声。 
 そして、私の肩を支えてくれる、暖かい手。
「ゆっくり息を吸って、吐いて。そうそう。上手ですよ」
 真っ白い視界の端に、よく見慣れたベビー用品店のロゴが入ったエプロンが見える。
 店員……さん?
「少し歩けますか?」
「は……い」
 少しずつ視界が戻ってくる。
 ゆっくりと顔を上げると、そこには穏やかに微笑む女性の姿があった。
「まだ顔が真っ青だからここに座ってくださいね。あ、お父さんはこちらへ」
 そう言って壁際にあるベンチに私を座らせると、夫を見て言葉をつづける。
「迷子ですか? 館内アナウンスを流しますので、あちらでお子さんの特徴を伝えてください」
「あ……はぁ」
「お父さん、しっかりしてくださいね。あなたのお子さんのことですよ」
 私が言いたかった言葉をさらりと口に出してくれたその女性は、インフォメーションへと走り出す夫を見送って私の隣に腰を掛ける。
 そして、私の背中にそっと手を置く。
 その温かい感触に少しずつ気持ち悪さが消えていく。
 うん。これなら大丈夫そう。
 深呼吸して息を整えた私は、肩から掛けているショルダーバッグのひもを握り締めて口を開く。
「私、もう大丈夫ですので息子を」
「お母さんはここにいてくださいね」
 私の言葉にかぶせるようにそう言って、立ち上がろうとしていた私の腕をつかんでにっこりと微笑む。
「今から警備員がこの辺りを中心に探しますから。お父さんも一緒に探しているはずですしアナウンスも流します。お母さんはここで待機していてください」
「でもっ」
「お子さんが戻ってきたときに一番に会いたいのはお母さんですから」
 その言葉に、私は思わず息を止める。
 息子が一番会いたいのは、私?
 本当にそうなのだろうか。
 思い返すのは最近の自分の行動。
 以前に比べて思うように動かない自分の体にイライラしてしまい、それを無意識にあの子にぶつけていた日々。
 誰よりも大切にしなければと思っているのに。
 今、誰よりも大切にしたい相手なのに、ちょっとしたことで自分の思い通りに動かない息子に対して感情的に怒鳴ってしまう。
 大切なのに。あの子のことが本当に大切なのに、その感情が伝えられない。
 だからこそ、今朝息子はあんな顔をしたのだろう。
 あんな目で私を見上げたのだ。
「それに、あまり無理をなさらないほうがよろしいんじゃないですか?」
 いたわるようにかけられたその言葉に、私ははっと顔を上げる。
「お腹の赤ちゃんのためにも」
 私のショルダーバッグに目を止めながら女性は言葉をつづけた。
 ななめ掛けしているショルダーバッグの紐には、優しい表情をした母子のイラストが入ったキーホルダーが付いている。
 母子手帳を交付してもらうときに一緒に渡される、マタニティーマークだ。
 このマークを受け取った時の息子の表情が脳裏をよぎる。
 興味がありそうだったので、このマークの説明と一緒にお腹の赤ちゃんのことを話すと、嬉しそうな、でも少しだけ不安そうな、そんな表情をした。
 それでも私がお腹をなでているときには隣に座って一緒になでてくれた。
 小さな手のひらが、何度も何度もお腹の中の赤ちゃんをよしよししているその姿が本当に嬉しくて、お腹をなでる息子をいつもぎゅっと抱きしめていた。
 お腹の赤ちゃんと息子と。二人ともをぎゅっと抱きしめてその幸せをかみしめていたのだ。
「……奏っ」
 お腹を押えながら、私は小さく息子の名を口に出す。
 止めることができない嗚咽を漏らす私に、そばにいた女性は静かに席を外してくれた。
 その優しさに感謝しつつ、私はマタニティーマークを握りしめる。
 その瞬間。


「ママーっ!」


 私を呼ぶ聞きなれた声に顔を上げると、そこには警備員さんに手を引いてもらいながら歩いてくる息子の姿があった。
「かなでっ!」
 脳内で再構築されていた赤いTシャツにデニムのパンツ。記憶と同じ服装の息子が私を見つけた途端に顔をぐちゃぐちゃにして泣き出した。
「ままぁっ!」
「奏っ!」
 私の腕の中に飛び込んできた小さな体をしっかりと抱きしめる。
「いったいどこに行ってたの? ほんっとうに心配したんだから!」
 うわぁああああんっ! と私の胸に顔を埋めて泣き続ける息子に私は話し続ける。
「パパと一緒に待っててねってママ言ったのに、なんでいなくなっちゃったの? 何があったの?」
 腕の中の息子は、小さな背中を震わせてしゃくりあげる。
 その背中を右手でさすりながら、私の左肩に当たる硬いものに気付く。
 息子の手に、何かが握られている……?
「奏」
 泣き声は収まったもののまだ呼吸が荒いままの息子をとりあえず胸元から引き離し、私は息子が右手に持っているものに視線を移す。
 そこには、クリスマスの飾りつけに使われているのであろう金色のアルミ箔で覆われた星があった。
「奏、これどうしたの?」
 小さな手のひらには大きすぎるそれをしっかりと握り締めていた息子は、私のその言葉に大きく深呼吸してからしっかりとした声を出す。
「あ、あそこの道でひろったの。きらきらしててきれいだったから、ママ、うれしいと思って」
 そう言って息子は店の前の大きな通路を指さす。
 中心には大きなクリスマスツリーがたくさんのオーナメントで飾られていた。
 おそらく、その一つが通路に落ちていたのだろう。
「奏、それはお店の」
「それで、赤ちゃんの分も、さがしたの」
 お店のものだから、返そうね。そう教えようとした私は、息子のその言葉に思わず目を見開く。
「赤ちゃんも、きらきらの星をあげたらうれしいと思ったの。でも、さがしているうちにパパが見えなくなっちゃって」
 そう言いながら、息子は言葉を詰まらせて下を向く。
 泣き出しそうになる息子のその様子に、私の視界も一気にぼやける。
「ありがとう。ありがとうね、奏」
 あふれ出す涙に気付かれないように、私はもう一度思いっきり息子を抱きしめる。
 ふわふわの髪が、頬をくすぐる。
 ああ。もう一度この髪に触れることができてよかった。
 このにおいを感じることができてよかった。
「よかったですね。お母さん」
 息子との感動の再会を果たしていると、後ろから穏やかな声が聞こえてくる。
「あ、すみません」
 振り返るとそこには先ほどまでそばで寄り添っていてくれた女性店員がいた。
 そして、その隣には息子を連れてきてくれた警備員も。
「本当によかった。お父さんも安心ですね」
 その言葉に少し目線を動かすと、肩で息をする夫の姿が見えた。
 鼻の頭にかいた汗に、思わず私は笑ってしまう。
 普段は息子にもお腹の子にも全然興味がない様子なのに、汗をかくほど一生懸命探してくれた。
 その姿が見られたことが今は純粋に嬉しい。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
 息子を抱きしめていた腕を離して立ち上がり、私は周りの人たちに向かって頭を下げる。
 慌てて隣に戻ってきた夫も一緒に頭を下げる。
「いえいえ。本当に無事に見つかって良かったです。もう目を離さないようにしてあげてくださいね」
 そう言って、女性店員はにっこりと微笑む。
「はい」
 その言葉を真摯に受け止めて、私は息子の手を握り締めてしっかりと返事をした。




「ほんとに、マジで疲れたわー」
 あの後、星形のオーナメントをきちんとお店側に返した私たちは、車を止めている駐車場に向かって歩き出していた。
「奏マジ頼むよ。勝手にふらふら動かないでくれよなー」
「それを言うなら、パパがもっとしっかり見ておかなきゃよね。携帯ゲームばっかりしてないで」
「あー。それ言う? それ言っちゃうわけ?」
「言っちゃうわよ。そんなんだから奏に嫌われるのよ」
「うっわー。へこむわ。俺だって必死で探してたのにさ。相変わらずキツイんだよなー。うちのママは」
「はいはい。どうせ私はキツイですよ」
 ぶちぶちと文句と垂れ流す夫の言葉を聞き流しつつ、息子と手をつなぎ歩いている私の耳に少し不安そうな声が聞こえてくる。
「ママ? おなか痛くない?」
「え? どうしたの突然」
「だって、あさ、ぼくがおなかにぶつかったから……」
 息子のその言葉に、私の足が止まる。
「ごめんなさい。ごめんなさいママ」
 今朝、なかなか出かける準備をしない息子にイライラしていたら、いつものように癇癪を起した息子が私にぶつかってきたのだ。
 いつもならうまく力を逃しながら受け止めるのだが、自分の準備にも忙しかった私はその注意を怠り、結果私の腹部に息子の頭がぶつかってしまった。
 その時、思わず我を忘れて息子を怒鳴りつけてしまったのだ。
「大丈夫だよ。奏」
 息子と目線を合わせた私は、私と視線を合わせようとしない息子の顔をこちらに向ける。
「大丈夫。ママも赤ちゃんも元気だよ。ママこそ、朝はあんな大きな声で怒ってごめんね。びっくりしたよね」
「……うん。びっくりした」
「ごめんね。今度からはママも気を付けるから、奏も気を付けてね」
「うん」
 素直にうなずく息子に、私は思わず抱きしめる。 
「おーい。なに親子でイチャイチャしてんだよー」
 一人先を歩いていた夫があきれた声で戻ってくる。
「なんだよ。結局俺だけ蚊帳の外かよ。ほんと、奏はママっ子だよなー」
「そだね。確かに奏はママっ子だわ」
 夫の言葉にしみじみとうなずいて、私は右手で息子と手をつなぐ。
 そして、左手で自分の腹部をなでる。
「ママ―? ままっこってなぁに?」
 キョトンとした表情で私を見上げるその小さな息子と、私の中にいるもう一人の大切なわが子。


 いつかこの子たちが自分から私のもとを離れるまで、ずっと一緒にいれますように。


 小さな手のひらの温かさを感じながら、私はひたすら祈り続けていた。

 







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(18/02/15 公開)

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